先日参加した「認知症を知る集い」で講演をされた太田正博さんの事で少し補足したいと思います。
彼は主治医に質問されてる最中ですらギャグを飛ばし、笑っておられました。
分からないときは「ワン」と犬の鳴き真似をして済ませます。
老人はよく昔のことを思い出し、笑います。
一番楽しかったときのこと、感動したことなどが鮮明に頭に残っているからです。
しかし、彼の明るさはこれとは別の物。
達観した後の、明るさ。
彼も最初のうちは随分と苦悩されたみたいです<当然ですが
ふさぎ込むこともあったと思います。
認知症の人は、質問されていることも、それがうまく答えられないことも、
そしてその様子を見て周りの人がどんな顔(感情)をしているかも分かるのです。
だから自分が答えないで辛そうにしていると、周りの人を余計に心配させ、
困らせる・・・・それが嫌なのです。
彼は言いました。
「同じ時間を過ごすのなら、苦しんだり悩んだりして過ごすより、笑って過ごせばいいじゃないか」
非常に深い言葉です。
阿波踊りの「同じアホならおどらにゃソンソン」とばかりの発言です。
彼は、これを実践しているのです。
質問される→分からない→自分自身で嫌になる→絶望や拒絶→他の人に当たる
→家族(介護者)にも迷惑になる→自分自身嫌になる→・・・の繰り返し。
この地獄から、
質問される→分からない→考えることは無駄なので、「ワン」とでも答えておこう→家族も「分からない」という事が分かるので追求することもない→終わり
という図式へと変換しているのです。
一番重要なのは
「別に分からなくても良い」
「思い出せなくてもかまわない」
「そんなこと、気にしない」
という事。
家族にしても別に思い出してもらわなくても、それ程困ることって無いのです。
そりゃ、自分の名前を忘れられるとショックです。
でも、気にしなければ全て済むこと。
認知症の人が悪いのなら、思い出させて追求すればいいけど、そうじゃない。
家族が気にしなければ、それで収まるのです。
「忘れちゃったの? 私だよ? ねぇ! ねぇ!」
そんな会話、まるで意味がない。
良い方向に向かうはずもない。
そう思います。
「忘れても、別にいいじゃないか」
非常に深い、悟りだと思います。
毎日楽しいから明るくしているのではない。
毎日を楽しく過ごしたいから、明るくしている。
これは、認知症でない我々にも言えることだと思います。

コメント
Unknown
最近ようやく、clausuwitzさんの今までのブログを読んでみたい!という気持ちが持てるようになってきました。
前は、ただただ怖くて仕方がなかったから・・
病気を少しずつ受け入れられるようになったのかもしれません。受け入れるというか、慣れてきたっていうのが近いかな?
同じ一日を大切に、楽しくいきたいと思います。
なぽさんへ
僕も、他のブログ(もっと進行している人)を見るのは怖い感じがします。
それでも、どういう経過で寝たきりになるのか、あるいは精神状態はどうなのか、とか気になることが多くて見てしまいます。
あまり参考になるかは分かりませんが、新しく質問などあれば、仰って下さいね。